目次
- 今、なぜ「健康」なのか?
- 「チーム・バチスタ」のモデルに
- 日本初の「バチスタ手術」
- 今すぐ企業が取り組むべきこと
- 健診や人間ドックの落とし穴
- もしもの時のために
- 経営者、人事担当者の方へ
- 命を救うこと、世界を救うこと
2. 「チーム・バチスタ」のモデルに
須磨先生
はい、では、自己紹介から入りましょうか。私は1950年生まれで、神戸で育ちました。今72歳です。大阪医科大学という関西の医学部を卒業して、すぐに東京に出てきて虎の門病院で外科医の研修を始めて、それからやっぱり心臓外科医になりたいと元々思っていたので、心臓外科の勉強を順天堂大学に行って5年ほどしました。そこから母校の大阪医科大学に戻って、アメリカにも留学して、このあとお話する世界で初めての新しいバイパス手術を成功させました。40歳頃から私のやった手術が世界的に広まったので、40か国近くを回って公開手術とか講演をしました。1990年代の中頃は、ローマのカトリック大学という、バチカンが全面バックアップしている3,000ベッドぐらいある大きな大学病院から心臓外科の教授としての招聘を受けて、イタリアに2年間住みました。
戻ってきてからは、1996年に湘南鎌倉総合病院に就職をして、最後は院長をしました。ちょうどその96年の年末あたりに日本で初めてのバチスタ手術というのをやりました。世界中をまわったり、ローマに住んでいた頃に思ったことなんですが、日本には心臓の専門病院がないんです。大学病院や総合病院のひとつの科としての心臓外科なんですが、アメリカやヨーロッパなどは、心臓の専門病院で心臓しかやらない。だから、いくらでも患者さんを受け入れられるし、すぐに緊急手術ができます。
そういうところで、しかも居心地の良いものをつくろうと思ってつくったのが、葉山にある葉山ハートセンターという病院で、そこの院長を5年間務めました。2000年にオープンして、その年のグッドデザイン賞の環境建築部門で最優秀賞をとりました。病院の施設がグッドデザイン賞の金賞をとったのはたぶん初めてだと思います。そこから六本木にある心臓血管研究所に移って心臓外科のスーパーバイザーをやり、62歳の時にメスを置いて、そこから自分のクリニックを開いたりして、今回medockという総合健診センターを去年の5月にオープンしました。というのが私のこれまでのキャリアです。
須磨先生
ここからスライドを使ってお話します。これが心臓外科医だった頃の私です。私のライフワークというのは、狭心症や心筋梗塞を防ぐためのバイパス手術です。上皇陛下も受けられたバイパス手術がライフワークです。こういう拡大鏡という4倍5倍に見える眼鏡をつけて手術をしていました。
そもそも医者になろうと思ったのは中学2年生、14歳の時です。親兄弟、親戚縁者、どこを辿っても一人も医者はいませんでした。入った学校が中学から大学まである甲南っていう神戸の近くにある学校で、ストレートに大学まで行けたからこそ友達との会話も進学ではなく、「卒業したら何になる」というところにストーンといくわけです。私自身は一人っ子だったもので、相談する相手もいないので、自分でいつも、「どんな大人になりたいのかな、どうやったら幸せになれるのかな」って、そんなことばかりずっと考えていました。ちょうど1964年の東京オリンピックがあった頃です。モーレツ社員というのが理想の男像だった。私は3月生まれなので、学年の中では最年少なわけです。特に小学校や中学校の頃なんて、体格も違うし、大人度も違うので、いつもいじめられる側だった。
だから、中学2年生の時に「将来何になる?」って考えた時に、会社員は無理と思った。競争に勝てないし、競争はしたくないと。じゃあ、どんなことをやったら自分は幸せになれるか?「やっぱり誰かのために何かをしてあげて、あなたと会えて良かった、嬉しいって言ってくれたら、たぶんハッピーになれるだろう」と思った。いろいろ考えたけど、最後に残ったのが弁護士か医者でした。その頃『ベン・ケーシー』という凄腕の外科医が出てくるテレビドラマと、もうひとつは弁護士ですごく優秀な人が活躍する物語がドラマであって、かっこいいわけです。どっちもいいなと思ったんだけれども、よくよく考えると弁護士は相手をやっつけないと自分が勝てない。医者だったら、自分が知識と技術を持っていれば助けてあげられる。その瞬間から「医者になろう」と決めたんです。
Hiro
かっこいいな。
須磨先生
それから今までずっとこの道で来られたので、本当の幸せ者です。受験する時に何学部を受けようかなんて考えたことはないし、しかもモデルが外科医だったもんで、自分には医者イコール外科医だったんです。だから大学を卒業する時に、どの科に進むかでも迷ったことはない。外科医としての専門領域を何にするかというので、ちょっと考えた時に、ちょうど世界初の心臓移植が成功したんです。これはもう世界的なニュースでした。心臓って手術できるんだと。心臓が弱ったら当然人は死ぬんだけど、その弱った心臓を元気にすれば、人は元気になる。こんなに分かりやすい手術はないと思って、なれるものだったら心臓外科医になりたいと学生時代から思っていました。
そのまま思い通りに来られたのは、本当に幸せだと思います。そういう私の半生というか、心臓外科医として辿った道を、『チーム・バチスタの栄光』を書いた海堂尊さんが、すごく面白いからじっくり話を聞かせてほしいって言われて、4、5回会って、1回4、5時間話して、それを全部彼がテープに録って書き起こして、できたのがこの本なんです。(「外科医須磨久善」)。そしたら、今度はテレビ朝日が開局40周年記念にこれをやりたいと言ってこられて、2時間半ぐらいのドラマが2010年に放映されました。私の役をやったのが水谷豊さん。豊さんは私の1歳年下なので、ほぼ同い年なんです。彼は本当に名優で上手に演じてくれました。私の家内役は顔がよく似ているというので薬師丸ひろ子さんがやってくださいました。彼女も本当に演技が上手で、撮影がとても楽しかったんです。